●女性 54歳 編集者●
前回の受講から3カ月経ち、日常の中で感謝を感じることが多くなりました。
朝日が昇ること、水があること今日も息をしていること。。。
自分が何もしていないのに、こういうことを与えていただいていることが新鮮です。
またこの三ケ月の間に起きていること自分と関係ないものは何ひとつないということに気付きました。
なのに、今回初めて「ウソと盗み」の実習をして、自分の中に「関係ない」と思う気持ちやそう思ってごまかそうとする言い訳の気持ちが根深いことに驚きました。父のことも「関係ない人」と思い、軽んじて、無視して暮らそうとしてきましたが、その中に感謝はおろか、「親なんだからしてくれて当然」という気持ちが無意識の中にあったこと、今回初めて気付きました。
前回の最後に「父を見ることすらイヤだったが父を幸せにすることを第一に暮らしたい」と書きました。そこまでは行っていませんが「見ることすらイヤ」というのはなくなり、またこれからの進歩が楽しみです。父は本当に私がこういうことに気付くために96歳まで生きてくれていると思うと感謝です。また父なりの接し方で全力で育ててくれたと気付きました。
この地球でたった一人の育ててくれた父だと気付きました。それを裏返すと子供達の私に対する態度でイライラしていたことも随分減りました。子供達も私に「親なんだから弁当作ってくれて起こしてくれて洗濯してくれて当然」と思っているだけだと気付けたからです。
今回の参加目的のひとつが『許し、許されること』というのがあり、前回「償い」を聞いたときはあまり身につまされなかったのですが、今回離婚して夫への自分の思いと重なり、自分の中でとっくに許していいこと十分すぎることをやってくれているとわかっていながら相手を裁く気持ちや私達のために苦しんで当然という気持ちにいかに自分が縛られて自分自身を苦しめてきたかに気付くことができました。
前回ウソと盗みをやった時は知っていたとはいえ、自分の中に隠していたものをさらけ出し、「もうお手上げだー」というスッキリ感で駅へ向かう足取りが軽かったのを覚えていますが、今回は「ごめんなさい」天に向かって「ごめんなさい」という言葉が出ました。それもこれも含めてよくわかったことは「感謝すべき人に感謝のない自分」「誰々のせいでこうなった。こうしている」と言い訳の塊である自分です。
誰のせいでああだ、こうだではなく、今、目の前の日常のひとつひとつをやり切るだけですべてOKと思うこの頃です。気が楽です。結局私が正しいわけでもなく、相手が正しいわけでもなくそういうことはどうでもよいことで、そこにおこってくることを体験し、そこから何を気付くがということのために出来事があり、呼吸法で集中できないとき、イスに自分の真我さん、また相手の真我さんに座っていただいてやるようにします。全体的に前より心が自由に毎回過ごせるようになりました。ありがとうございます。